最近「言葉」について考えることが増えた。何かきっかけがあったわけではないが、ふとした時に(あれ?人間が最初に話した単語ってなんだったんだろう?)こんな考えが浮かんでは消える。そもそも言語自体もない時ならば、「オー」とか「ヤー」とかの掛け声的なものか、「あっ!」「うぁ」とかの驚きか、もしかすると「あぅ!」のような悲鳴のようなものか。どれも違うような気がするが、世界共通の表現といえばこんなとこではないだろうか。世界基準で使う言葉は瞬間的な表現だけだ。その後共通の目的を持ち、集団の中で単語を決めていったのだろう。こんな風に物事の原点を考えるのは本当に面白い。だからなのか、漢字にしてもついついその成り立ちを調べてしまう。個人的には象形文字や甲骨文字が大好物だ。シンプルな文字だけに見ていて飽きがこないところがいい。ひらがなやカタカナも成り立ちを調べると人間味があって面白い。しかしだ、日本にはカタカムナという文字がある。これについては謎だらけではあるが、発祥とされる神社も神戸に存在している。だが、実際のところはあくまでも有力な説でしかないのも事実だ。どちらにせよ、その文字は存在していることは確かだ。この文字が面白いのは、文字は幾何学的で読み方は渦巻き状に読んでいくというところだろう。あまりにも理解不能なので、この文字に関しては調べるのをやめた。文字や言葉は、何かを伝えるためにある。そもそもは小さな集団での共通認識にはじまり、やがて感情表現に進化していったのではないだろうか。今や共通認識や感情表現は当たり前となったが、私にとって若い人たちの言葉は理解不能なことが多い。言葉遊びからの単語だけに想像すらつかない。きっと私の時もそうだったのだろう。万年筆を持って「ハッパフミフミ」と言ったって大人は「なんのこと?」となっていただろう。今の若い人たちはもっと意味不明に違いない。新しい言葉ができては消えていく。それは、そもそもその言葉に意味などなく、目的もないからだろう。薄っぺらな言葉は、広まったとしてもやがては消滅する。未来に「季節」という言葉は残っているだろうか?「愛」や「希望」、「夢」などの美しい言葉はどうなっているのだろう。文字も言葉も発する側は、受け取る側の気持ちにならないと伝えることができない。だからこそ文字にも言葉にも熱量が必要なのだ。美しい言葉も熱量が無ければ伝わらない。誰かに何かを伝える、それこそが人の営みの原点のような気がする。これだけのことを書いていると熱量も半端なく消費する。なので「お腹すいた~」と伝えてみた。「糖尿やろ!我慢我慢」とあっさり無視された。どうやら伝えるには熱量だけでなく伝え方の工夫もいるようだ。次回は少し話術を磨いてからチャレンジしてみようと思う。

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