楽しみだった連休も、昨年同様に自粛生活で終わった。しかし、自粛生活もここまで長くなると新たな発見をすることも多くなる。アボカドの新しい食べ方や、新ジャンルのお茶漬け、壊れていた雑貨のリメイク、などなど多岐にわたって発見がある。あれこれやっていると、ふと自分の「心」がどこにあるのか?という考えが浮かんでくる。アボカドの新しい食べ方にチャレンジしている時は、どことなくだが、お腹のあたりに「心」がある気がした。雑貨のリメイクの時は、どちらかというと顔面にあるように思えた。このように心の置き場所は、場面場面によって違うのかもしれない。苦手な人と会う時、自分の「心」はどこか遠くを旅している。失礼のないように受け答えはするが、間違いなく「心」は富士山の山頂付近にいる。逆に、好きな音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいる時は、「心」は全身を駆け巡る。ならば「心」の居場所はどこなのだろう?この「心」という存在は、おそらく生き物全てが持っていると私は思っている。例えば、毒を持っている蝶に擬態する他種の蝶がいる。毒がある蝶は当然捕食されにくい。きっとそれを見ていた蝶が(自分の仲間は食べられるのに、あいつは食べられない)という事実に(あいつになりたい)と思う「心」が生まれ、その「心」が遺伝子に組み込まれ、やがて擬態という能力を得たのではないだろうか。花に擬態する花カマキリは、捕食しやすくするために進化した。ここにも(この花に化けたら捕食しやすい)という「心」があったに違いない。生きるということは「心」に左右されるということに他ならない。そしてそれは、何世代にもわたって受け継がれる。ということは、その逆もまた起こる可能性があるということだ。生きる目的もなく、自堕落な思考を繰り返していると、やがてその「心」は自分の子孫に受け継がれていく、そう考えると少し怖くなってしまう。このスーパージーンと呼ばれる遺伝子研究はまだ始まったばかりだ。進化というワードは本当に不思議なことばかりだ。人の進化に欠かせない要素は「眼」と「ウイルス」らしい。そもそも複眼だった祖先は、やがてより鮮明に見えるカメラ眼を獲得し、捕獲者から逃げ延びた。さらにウイルスによって死んだ生き物を食べ、そのウイルスを体に取り込んだ。気が遠くなるような昔の話だが、今もなおその進化の結果は自分の体に存在している。何かを願っていれば、数億年後にはそれがかなっているのかもしれない。だとすれば、人は「心」によって分類されているのかもしれない。進化の過程など自分で気がつくはずがない。今もなお、人の進化は続いているはずだ。先祖が、それぞれに望んだことの実現に向けて何かしら進化しているのだろう。命の連続性は本当に凄いことだと思う。私の願いが数億年後にかなっているのかもしれないと思うと少し笑えてくる。当然その頃には千の風になっているのだろうが、正義のヒーローのようになった子孫に感謝されていることだろう。まぁ、数億年も人類が繁栄し続けていればの話だが。そういえば最近、コロナウイルスの長期にわたる影響で、今まで見ていた人の「心」が変化しているように感じる。生活のリズムが崩れ、金銭的な不安や社会への不信感が重なって小さなトゲを持ち始めている。こんな時だからこそ、他者を考える「心」は持っていたいものだ。自分が大事ならば、自分を見てくれる人も大事にしなくてはならない。それこそが自分の存在理由だからだ。ハート+2℃、今こそ必要なことだと思えてならない。

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